やし酒飲み(The Palm-Wine Drinkard)
エイモス・チュツオーラ作 土屋 哲訳
個人的に小説にとって題名とは、その小説の一部またはすべてを言い表してしまうくらい重要な要素だと思っているが、これほど端的に物語の核心を突いたタイトルは珍しい。
「わたしは、十になった子供の頃から、やし酒のみだった」
はじめてこの一文を目にした時、あまりに素っ気ない、生まれたての言葉に魅せられ、一気に小説の世界に引き込まれてしまった。やし酒をこよなく愛し、毎日やし酒を愛飲(痛飲?)していた主人公にとって、命ほど大切な自分専属のやし酒造りの名人が、ある日突然死んでしまった。どんなに他のやし酒造りの名人が美味しいやし酒を差し出しても、死んだ自分専属のやし酒造りの名人が作るやし酒には遠く及ばない。主人公は「この世で死んだ人は、みんなすぐに天国へは行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」という古老の言葉を思い出し、死んだやし酒造りの名人に会うために旅に出る。旅先で出会う異形の者たちの存在が、おとぎ話の世界に迷い込んだかのような不思議な感覚を与える。
英語が母国語でない作者による、生々しいほど直接的な表現を翻訳者は非常に巧みに訳出している。また、解説で多和田葉子さんも指摘なさっていたが、通常の翻訳では考えられない「ですます」や「だった」の混合は、訳者自身の発明というよりも作者であるエイモスの文体の特徴である可能性が高い。これほど自由に非母国語で、文法の縛りを抜け出し、物語を生み出せたという事実に、文学ひいては言葉の持つ大きな可能性を感じずにはいられない。
何より純粋に読んでいて楽しく、勇気をもらえるすぐれた小説の一つだ。
2021年1月30日